抽象絵画
ついに、何も「写さない」絵が生まれます。色と形だけで、音楽のように直接心へ届く絵。カンディンスキーは1911年に『芸術における精神的なもの』を書き、その考えを言葉でも残しました。ただ「最初の抽象画は誰か」は、いまも決着していません。長く「カンディンスキーの1910年の水彩」とされてきましたが、実際は1913年の作で、本人が年記を遡らせた可能性を指摘する研究者がいます。そしてもうひとり、誰にも見せずに描いていた人がいました(右の「ヒルマ・アフ・クリント」へ)。この水脈はいまも続いています。扉を押した音、という話をさせてください。1911年1月2日、ミュンヘンでシェーンベルクの演奏会がひらかれ、カンディンスキーは仲間たちとそれを聴きに行きました。調のない音楽です。どの音が主役かを決めずに、音そのものが立っている。その帰りに彼が描いたのが『印象III(コンサート)』でした。画面の黒いかたまりはグランドピアノに見えますが、まわりの黄色はもう何も写していません。音楽はずっと前から、何かに似せなくても成立していました。絵にもそれができるはずだ——抽象への扉を押したのは、目でなく耳だったのかもしれません。