アフリカの彫刻
ナイジェリアのノク文化のテラコッタは紀元前まで遡り、イグボ・ウクウの精緻な鋳造は9世紀ごろ、イフェの写実的な頭像は12〜15世紀、ベニン王国の真鍮の浮彫は13世紀末から現在まで——鋳造師のギルド「イグン・エロンウォン」が世襲で技を手渡し続けています。ここで大事なのは順番です。これらはヨーロッパの前衛が「発見」する何百年も前から、それぞれの社会の中で完成された体系として機能していました。遅れたのは、西洋の目のほうです。しかもその目が届いた経路は、穏やかではありませんでした。1897年、イギリス軍がベニン・シティを攻め、約5000点の真鍮板や象牙彫刻を持ち去ります。数ヶ月後、それはロンドンで展示されました。1905年ごろのパリでは、ヴラマンクやドランが仮面を手に入れ、マティスやピカソがそれを見ます。1907年、ピカソはトロカデロの「民族誌」博物館を訪れました——美術館ではなく。当時これらは「芸術」ではなく「人類学の標本」として分類されていたのです。そのすぐあとに『アヴィニョンの娘たち』の顔は塗り直されました(ピカソ本人は影響を否定しており、どの仮面がどう対応するかも定まっていません)。ニューヨーク近代美術館が近代美術とアフリカ美術を並べて展示したのは1984年のこと。それすら「作者名も説明もなく並べただけだ」と厳しく批判されました。略奪から87年たっても、対等な出会いには届いていなかったわけです。だからこの地図では、アフリカを源流の隅ではなく、いまも続く流れとして置きます。呼び名についても一言。「プリミティブ・アート(原始美術)」という言葉は、宣教師が非西洋を「野蛮」と呼んだ語彙の延長で、いまは使わないことになっています。個々の呼び名(ヨルバ、ファング)は当事者のものですが、それらをひとまとめにする上のカテゴリーは、外からつけられたものでした。