デジタルアート
メディア・アートがブラウン管を絵の具にしたとすれば、こちらは計算そのものを絵の具にしました。人が一本ずつ線を引くのではなく、規則を書いて、機械にその規則を走らせる。出てくる形は、書いた本人にも完全には予想できません。始まりの年は、きれいに揃っています。1965年です。2月4日から19日まで、シュトゥットガルト工科大学の小さなギャラリーでゲオルク・ネースが個展をひらきました。プログラムを走らせて描かせた線画を並べた、おそらく世界で最初の展覧会です。その2か月後の4月6日から24日、ニューヨークのハワード・ワイズ画廊でベラ・ジュレスとマイケル・ノルが同じことをします。同じ年の11月には、シュトゥットガルトでフリーダー・ナケがネースと並んで展示しました。ネース、ナケ、ノル——この分野では「三人のN」と呼ばれています。1968年8月2日から10月20日、ロンドンのICAでヤシャ・ライヒャルトが「サイバネティック・セレンディピティ」展をひらきます。美術だけでなく、音楽も詩も踊りも彫刻もアニメーションも、機械と一緒につくれるものを全部並べた展覧会でした。ここで初めて、この分野は広い観客に届きます。この帯でいちばん好きな話は、ヴェラ・モルナールのものです。1924年ハンガリー生まれ、1947年からパリ。彼女は1960年ごろ、まだコンピュータを持っていないのに「マシン・イマジネール(想像上の機械)」という方法を考えました。機械ではなく、やり方のことです。規則を決めて、自分の手でその通りに変形を続けていく。実際に計算機に触れたのは1968年、ソルボンヌの研究室でフォートランを独学してからでした。つまり彼女の中では、機械より先にアルゴリズムのほうが動いていたことになります。ちなみに彼女が1960年に参加した「具体芸術」展をひらいたのは、マックス・ビル——この地図ではウルム造形大学の初代学長として出てくる人です。そして、いま。2001年、MITメディアラボのジョン前田のもとにいたケイシー・リースとベン・フライが「Processing」を公開しました。無料で誰でも使える、絵を描くためのプログラミング環境です。コードが読み書きできる人だけのものだった方法が、ここで美大生とデザイナーの手に渡りました。いま画面の上で動いている生成的な絵の多くは、この道の下流にあります。——ひとつ、隣の帯と並べておきたいことがあります。ソル・ルウィットが「アイデアが、作品をつくる機械になる」と書いたのは1967年、指示書を送って他人に壁を描かせる実践を始めたのは1968年です。ネースが規則を機械に走らせたのは1965年でした。人に読ませる指示書と、機械に読ませる指示書が、ほとんど同じ時期に、たがいを知らないまま出てきたことになります。最後に名前の話も。この帯の呼び名は何度か変わりました。1960年代は「コンピュータ・アート」、いまは「ジェネラティブ・アート」や「デジタルアート」と呼ばれます。やっていることはほとんど同じなのに、機械が珍しくなくなるにつれて、名前から機械が消えていきました。この地図では名前はたいてい後の時代がつけますが、ここでは後の時代が、何度もつけ直しています。