構成教育
バウハウスに学びに行った日本人は、4人だけです。水谷武彦が1927年にデッサウへ入り、1930年に帰国。山脇巌・道子の夫婦が1930年から1932年まで。最後の大野玉枝は1933年に着いて、4〜5ヶ月で学校が閉じました。その4人が持ち帰ったものを、日本の教室のことばに翻訳した人がいます。川喜田煉七郎です。1932年、銀座に新建築工芸学院を開きました。「日本のバウハウス」と呼ばれた学校です。1934年には武井勝雄と『構成教育大系』を書きます。線と面と材料から始めるあの基礎の授業を、日本語にした本でした。1933年にその学院へ入った十代の生徒に、桑沢洋子がいます。彼女は1954年4月、バウハウスをモデルにした日本初のデザイン専門学校をつくりました。桑沢デザイン研究所です。開校の2ヶ月後、そこにグロピウス本人が訪ねてきています。1966年には東京造形大学も生まれました。もうひとつ、別の入口からも水が来ています。1932年生まれの向井周太郎は、1963年からJETROのデザイン留学制度でウルム造形大学に学びました。教わった相手が、マックス・ビルとオトル・アイヒャーです。1965年に帰国し、1967年4月、阿部公正とともに武蔵野美術大学へ基礎デザイン学科をつくりました。バウハウスから直接ではなく、戦後のウルムを経由して届いた第二の波です(向井は2024年に亡くなりました)。同じ十年のあいだに、日本は二つの答えを受け取っていたことになります。1926年にイギリス経由の手仕事(民藝)、1932年にドイツ経由の機械と幾何。どちらかが正しかったのではなく、両方が要るのだと思います。いま小学校の図画工作でやる「構成」の課題は、この水路の下流です。もうひとつ。バウハウスの最期を世界でいちばん有名な一枚にしたのも、この4人のうちの一人でした。山脇巌のフォトモンタージュ『バウハウスへの打撃』(1932)。デッサウの校舎を軍靴が行進する絵です。東京の雑誌『国際建築』に発表され、いまはベルリンのバウハウス・アーカイヴにあります。受け取るだけでなく、返してもいた——この地図が好きなかたちの、小さな一例です。