ヒスイと勾玉
日本でいちばん古い装身具の材料は、いちばん硬い部類の石でした。糸魚川(新潟県)のヒスイは約5億2000万年前にできた地球最古級のヒスイで、人がこれを加工しはじめたのは約7000年前、縄文時代の前期後葉です。中米のオルメカがヒスイを使いはじめるのが約3000年前、マヤが約2000年前ですから、桁がひとつ違います。世界でいちばん早くヒスイに手を入れた人たちが、ここにいました。勾玉——あの、点が尾を引いたようなかたち——も縄文時代に生まれ、古墳時代に主流になります。三種の神器の「玉」がこれです。海も渡りました。朝鮮半島の新羅・伽耶では5〜6世紀の墓から曲玉が大量に出ていて、1921年に慶州の金冠塚で見つかった金冠には57個が吊り下がっています。ただし、その石がどこから来たのかは決着していません。1986年に崔恩珠が19点を蛍光X線で分析したところ、糸魚川産ともミャンマー産とも成分が違った。では朝鮮半島産かというと、半島でヒスイの産地はまだ見つかっていないのです。行き来があったことは確かで、どちら向きだったかが分からない。この地図が線を引くとき、いちばん慎重になるかたちの話です。そして、この水脈は一度、完全に途切れます。奈良時代に入るとヒスイの文化は急速に衰え、やがて消えました。分かっている最後の使用例は、東大寺法華堂の不空羂索観音立像(天平年間・740〜747年)の装飾です。祈りのかたちが仏のほうへ移り、玉は要らなくなった。7000年続いたものが、そこで止まりました。——ここからが、この地図が何度も語ってきた「遅れて届いた」話の、いちばん長い版です。文化が消えると、産地の記憶も消えました。江戸から昭和のはじめまで、日本の遺跡から出るヒスイは、ミャンマーや中国雲南やチベットから渡ってきたものだと考えられていました。日本にヒスイは出ない、というのが常識だったのです。それをひっくり返したのは、学者ではなく詩人でした。糸魚川に住んでいた相馬御風が、この土地を治めた奴奈川姫がヒスイの勾玉を身につけていたという古い伝えを読み、それなら近くに石があるはずだ、と考えます。話を聞いた伊藤栄蔵が小滝川の支流をたどり、8月12日、緑の石を見つけました(発見の年は1935年説と1938年説があり、いまも定まっていません)。1939年、河野義礼が学術論文で日本産ヒスイを確認します。足元にあったものに、千年以上かけて戻ってきたわけです。アルタミラは23年、ヒルマ・アフ・クリントは100年でした(→洞窟壁画・ヒルマ・アフ・クリント)。ここは千年を超えています。届くのに時間がかかることは、届かないことではない——この地図でいちばん長い実例が、日本にありました。