民藝
1925年の暮れ、木喰仏を訪ねる旅の途中で、柳宗悦・河井寛次郎・濱田庄司の三人が「民衆的工藝」を縮めて新しい言葉をつくりました。「民藝」です。翌1926年、富本憲吉を加えた四人の名前で「日本民藝美術館設立趣意書」が出ます——ちょうど100年前のことです。考えの芯は逆説でした。美しく作ろうとした器より、使うために作られた器のほうが美しい。しかも柳は、その理由を仏教で説明します。名もない職人が、我を張らず、ただ必要から作るとき、そこに他力の美が宿る——親鸞の「凡夫成仏」を器に重ねたのです。この地図の献辞が「名もなき手」に向いているのは、たぶんこの人たちの影響です。海の向こうとの関係も、この帯の見どころです。イギリスのウィリアム・モリスと問題意識は重なりますが、答えは分かれました。モリスは最後まで「デザインする個人」でしたが、柳は個人作家より無名の工人を上に置いたのです。柳自身は「モリスを知るずっと前から始めていた」と影響を否定しています(本人の言い分で、研究者の見方は分かれます)。そして逆流が起きます。イギリス人陶芸家バーナード・リーチが日本で学び、1920年に濱田庄司とイギリスのセント・アイヴスへ渡って窯を築きました。イギリスの現代陶芸は、ここから始まっています。日本が受け取り、組み替えて、返した——この地図でいちばん美しい往復のひとつです。もうひとつ、正直に書いておきます。柳は1922年、朝鮮の光化門が取り壊されそうになったとき、新聞に5回の連載を書いて反対し、実際に保存されました。同時に、彼が朝鮮の美に見た「悲哀の美」という見方については、植民地のまなざしだという批判が韓国の研究者から出され、いまも議論が続いています。守った人であり、批判もされている人。両方書くのが誠実だと思います。