琳派
琳派には、家元も教室もありません。俵屋宗達に約100年後の尾形光琳が私淑し、光琳にさらに約100年後の酒井抱一が私淑する——時代を飛び越えて憧れの先人に学ぶ系譜です。その会話が物理になった一枚があります。光琳が模写した風神雷神図屏風の裏面に、抱一は『夏秋草図屏風』を描きました。雷神の裏に雨の夏草、風神の裏に風の秋草。100年越しの返歌です(保存のため、いまは表裏が分けられています)。「琳派」という呼び名自体も近代につけられたもの——この系譜は、後の時代がくり返し「発見」してきた水脈です。もうひとつ、この地図の文脈で書いておきたいことがあります。琳派は、絵の系譜であると同時に、デザインの系譜でした。尾形光琳は1658年、京都有数の呉服商・雁金屋の次男に生まれています。家業は着物の意匠です。しかも尾形家は、琳派の起点とされる本阿弥光悦の家と姻戚関係にありました。師弟でも家元でもない系譜の、いちばん最初のところには、血のつながりと商売があったわけです。光琳は30歳で父の莫大な遺産を継ぎ、数年で使い果たしてから、本格的に絵を描きはじめました。5歳下の弟・尾形乾山が1699年に鳴滝で窯をひらくと、兄はその器に絵を描いています。絵と焼き物のあいだに線を引かない仕事の仕方です。そして彼の意匠感覚は「光琳模様」という言葉を生み、いまも着物や工芸の柄として使われ続けています。人の名前が、柄の名前になって残った。様式の名前は後の時代がつけると何度も書いてきましたが、ここでは名前のほうが模様になりました。