ウィーン分離派
1897年、ウィーンのカフェに集まった19人が、保守的な既存団体を脱けて自分たちの協会をつくりました。「ゼツェッシオン(分離)」という言葉は、古代ローマで平民が貴族の横暴に抗議して都市を出ていった故事から来ています。出ていく、という選択そのものを名前にしたわけです。初代会長はグスタフ・クリムト。彼らが建てた会館の入口には、いまもこう刻まれています——「時代にはその芸術を、芸術には自由を」。そしてクリムトの金です。あの黄金の画面が日本美術から来ていることは、美術史ではほぼ決着がついています。ある研究者は「この要素なしにクリムトはクリムトたりえなかった」と書きました。クリムトは日本美術を集めただけでなく、研究者のように調べ続けていたことも分かっています。琳派の金地、浮世絵の平らな面と輪郭線、大胆な余白——尾形光琳が屏風に置いた金が、時間と海を越えてウィーンの壁で光っている。この地図でいちばん遠くまで届いた往復のひとつです。