障壁画・狩野派
金地に松、襖いっぱいの獅子。城や寺の壁を丸ごと絵にする仕事を、狩野派という一族がおよそ400年担いました。始祖は狩野正信、幕末まで血縁と師弟で技を手渡し続けた——ひとつの画派が4世紀にわたって一国の画壇の中心にいた例は、世界でも稀です。安土城や聚楽第の障壁画を手がけた永徳の絵は、そのまま権力の大きさを見せる装置でもありました。『洛中洛外図屏風』には約2500人が描き込まれています。400年ものあいだ中心にい続けられた理由は、才能ではなく仕組みのほうにありました。狩野派には「粉本」というお手本があります。弟子は最初から自分の思いつきで描くことを許されず、永徳の画風を標準化した粉本を、徹底して写すところから始めました。写すことで技を手渡す。個人が死んでも、粉本が残っていれば画風は続きます。——この地図には、同じ日本の同じころに、もうひとつ別のやり方があります。琳派です。あちらには家元も教室も粉本もなく、100年後の誰かが勝手に憧れて学ぶ「私淑」で続きました。組織で手渡すか、憧れで飛び越えるか。技の伝え方が、二通り並んで走っていたことになります。ちなみに永徳は1590年、東福寺の天井画を描いている最中に倒れました。続きは弟子の山楽が引き継いで仕上げています。ここでも、仕事は人より長く生きました。