浮世絵
江戸の町人が買えた、世界でもっとも民主的な絵です。版元が企画し、絵師が描き、彫師が彫り、摺師が摺る——四者の分業が、美を大量に届ける発明でした。1765年ごろ、絵暦の交換会から多色摺の「錦絵」が生まれ、春信、歌麿、写楽(活動はわずか10ヶ月)、北斎、広重と、市井の熱がスターを生み続けます。そして1867年、パリ万博でこの絵たちは公式に海を渡り、印象派の目を変えました。「陶磁器の包み紙として偶然渡った」という有名な逸話は、いまでは確証のない俗説とされています。偶然ではなく、ちゃんと見せに行った——そのほうが、この絵たちの誇りに合っている気がします(僕の私見です)。ついでに言うと、日本はこれをもう一度やっています。約100年後、戦後の前衛「具体」もまた、待たずに自分からパリへ作品を送っているのです。もうひとつ、絵の具の話をさせてください。北斎の波のあの青は、日本の色ではありません。プルシアンブルー——江戸では「ベロ藍」と呼ばれた人工顔料で、オランダ船が長崎へ運んできたものです。18世紀半ばには入っていましたが高価で、値が下がって版画に大量に使えるようになったのが19世紀の前半でした。1831年ごろから出はじめた『冨嶽三十六景』は、その安くなった青をふんだんに使っています。北斎があまりに使ったので、この青には「北斎ブルー」という別名までつきました。日本でいちばん有名な波の青は、外から来た絵の具だったわけです。ちょうど同じころ、海の向こうではチューブ入りの絵の具が生まれて、印象派を戸外へ連れ出しています。新しい絵の具が新しい絵をつくるということが、東と西で同時に起きていました。最後にもうひとつ、私見を。版元が企画してお金を出し、絵師・彫師・摺師が分かれて仕事をするこの仕組みは、いまのマンガの編集者と作家の関係や、アニメの制作委員会と、かなり似た形をしています。江戸の版元は、たぶん日本で最初のプロデューサーでした。